タルトタタンを知らない -「読んでいない本について堂々と語る読書会」からのイメージ-

 タルトタタンから意識的に目を逸らしてきた。

 初めて名前を目にしたのは5年くらい前に読んだ、「〇〇のタルトタタンが美味しかった」というWEB記事の一行だったと思う。知らない名詞、独特すぎるネーミング。気になって前後の文脈を辿るとどうやらお菓子の類であるらしい。しかし記事からはそれ以上の情報を得ることが出来なかった。

 タルトタタン。言葉の響きが気に入った。どことなくエキゾチックで呪詛的なものを感じる。唱えれば、嫌いな人の靴の中に小石が絶えず紛れ込んだり、お気に入りのセーターが突然チクチクし出すくらいの威力はありそうだ。  

たった6文字の中に「タ」が3つも入っている言葉なんてあるだろうか、悪ノリで名付けてしまって命名者は後悔していないだろうか。しかし前半のタルトは分かるとしても、後半のタタンが事態をややこしくしている。

 タタン。濁音も半濁音も使われず、のっぺりとしていながらどこかコロコロとした印象、語感で思い浮かべるのは木の実。「タタンの実」が入ったタルトなのかも知れない。でもそうなると、大抵タルトは後ろについて「タタン-タルト」になるはず。なぜ「タルト-タタン」なのか。いや実は「タタンのタルト」でも「タルトのタタン」でもなく「タルトとタタン」だったりはしないだろうか。「赤飯饅頭」とか「プリンどら焼き」とか「牡丹と薔薇」とかと同じあれだ。タタンと言うお菓子は聞いたことがないけれど、不惑を過ぎても知らないことなんていくらでもある。ついこの前、8年近く使っていた会社の複合機の「PDF連続読込み機能」を知って感動していたら、後輩から「え?今知ったんですか?」と驚かれた。 

 

 こうして初めて目にして以降、イマジナリータルトタタンは私の脳内にブラックホールのような空洞となって小さく禍々しく鎮座した。それはそれで何だか面白くて、いっそのこと本物のタルトタタンに出会うまではこのままにしておこうと、その後暫くはネットや雑誌でタルトタタンという文字を見るとあえて目を逸らして余計な情報を入れずにいた。

 この「タルトタタン断ち」は、つい先日、コンビニでの僥倖であっけなく終わりを迎える。私が妄想をしているあいだに、タトタタンはコンビニに並ぶほどの市民権を得ていた。買って帰ったあと暫くは、無駄に冷蔵庫から出しては「これがタルトタタンか…」と、色々な角度から眺め感慨に耽っていた。期限もいよいよとなり意を決する。きちんと皿に盛ってコーヒーと一緒に食べようかと思ったけれど、いざその時になるとなんだか急に恥ずかしくなって、ビニール包装を破いてそのままかじりついた。前歯の裏から鼻腔へタルトタタンがジュワっと駆け抜ける。  おぉ!これが!と思った瞬間、脳内のタルトタタンブラックホールはシュンと萎んで消えてしまった。  

ヘアバームと読書会と世界の終わり(ある休日)

 髪型が決まらない。先週思いつきでツーブロックにしたのがいけなかった。美容室ではサラッといい感じに仕上がったのに、いざ自分でセットすると「入浴禁止の入院患者」になってしまう。美容師が使っていたヘアバームと同じものを買ったのにこれだ。何度か失敗してヘアバームは自分が思っている半分くらいの量にすればそれっぽくなる事がわかった。ところで皆ヘアバームなりヘアワックスなりの使い方をどこで知るのだろうか。


 夕方、ジムから戻りシャワーを浴びて読書会へ。ヘアバームは自分が思っている量の半分の、さらに半分にした。

 

 本屋がある商店街の入り口に車を停める。暮れ始めた陽が商店街を薄くオレンジにした。早く着いたので始まる迄の間本屋で新刊を物色しようかと思ったけれど、早く行くと「読書会をむちゃくちゃ楽しみにしている人」に思われそうなので少し商店街を歩く。

 商店街。中学校の体操着が売られている婦人服店、知らない演歌歌手のサイン付きポスターが貼られたスナック、ずっと大音量でラジオが流れている宝石店、煙草販売カウンターがある酒屋。どこからか土間の湿った冷たい土の匂いがした。自転車に乗った年配の女性が車道をゆっくりと斜めに横切る。オレンジが濃くなった。開始2分前に本屋に到着。

 

 読書会は特定の本について語り合うのではなく「読んでいない本について語る」という独特なもので今回で3回目。各々が自宅で積読にしている本を持ち寄る。今日は常連に混ざって遠方から初参加の方が来ていた。

 初参加の方。詳しくは書けないけど珍しい苗字で、自己紹介で自身の苗字にまつわる話をしてくれた。「皆さん私の苗字、何となく気になりますよね」という先読みの気遣いを感じた。その気遣いや説明までの自然な流れは、望む望まないに関わらず自分の苗字に説明を求められる場面や空気に幾度も遭遇している事を暗に証明しているようで少しだけ切なくなった。本当のところは何も分からないけど。


 各々の持ち込んだ本について「なぜ読んでいないのか」というエピソードを紹介する。装幀狙いで買った本、ひらがなばかりで逆に読みにくい児童書、難しすぎて挫折した本、家にある理由さえわからない本。理由は様々。さながら「積読あるある」の大喜利のようだ。ただ、時折笑いが 起きつつ話が進むものの、未読の本を話す時は皆言葉の節々に「読めていないこと」への後ろめたさや申し訳無さが滲む。そして話し終わると少しだけ眉があがる。なるほど読んでいない本への鬱積した感情を、赤裸々に告白することで成仏させているのだ。カタルシスだ。グループカウンセリングだ。

 

 ところで「読んでいない本」とは何だろう。どこまでを「読んだ本」と定義し、どこまでを「読んでいない本」と定義づけるのか。パラパラとページをめくったら読んだ事になるのか、読んだけれど何の感想もない本や、主人公の名前もストーリーも忘れてしまった小説は読んだことになるのか、帯文と解説を読んだら読んだ本として括られるのか、この読書会に参加してからだんだんわからなくなってきた。

 私の本棚に鎮座したまま数年経つカラマーゾフの兄弟や、おしゃれ本棚を目指して買ったエドワードホッパーの絵画集は、読んでいないものの毎日視界に入っており、視界に入っている以上何かしらの影響を私に与えている筈で、実際それらが本棚に置かれた後、ドストエフスキーにまつわる本を買ったり、ホッパーの表紙にあるNighthawksに似た構図で写真を撮ったりしている。


 仮に本の意義を大雑把にとって「対象になんらかの感情をもたらすもの」とした場合、本は「読む」という行為だけのものじゃないと思うようになった。突き詰めれば手にしたかどうかも重要ではなくて、読もうと思ってその本を意識した時点で、本の存在が海馬に刻まれ、その人を構成する一部となり、結果本の意義の一部を達成している事になるんじゃないか。となると図書館や本屋と言うのは、そこに居てふらふらと背表紙を眺めているだけで「ああ、こんなジャンルの本があるのか」などと自分の脳内HDDに夥しい情報が書き込まれていく貴重な場所だ。そう考えるとなんだか少し楽しい。いや読むに越した事は無いのだけれど。


 前にツイッターで「本の内容については語らず、本の装幀やデザインだけを語る読書会があったら面白そう」という呟きがあって、見かけた時はふうんと流したのだけれど、こうして未読の読書会に参加すると、それ本当に面白いかもしれないな、などと人の未読本の話を聞きながらぼんやり考えていた。


  読書会が終わった後、併設しているカフェでホットドッグを頼んだ。大口を開けないと食べられないボリューミーなホットドッグがテーブルに運ばれ、自分の絶望的な食べ方の汚なさを思い出した。誰もみていない瞬間を狙いこっそりと大口で放り込む。爆ぜるパン粉、滴るサルサソース。参加者の一人が本棚からテーブルに戻ってきたのでサッと食べる手を止め「なんか良い本ありましたか?」「村上春樹でSFっぽいのは『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』ですかね」など自然な感じを装って話かけていると「ホットドッグ、冷めますよ」と言われた。ホットドッグを食べるふりをして添えてあるトルティーヤチップスを食べた。


 本屋を出ると日はどっぷり暮れていて、オレンジだった商店街は、街灯に照らされ世界の終わりのようにシンと青白く沈んでいた。帰って手を洗いながら鏡をみると、出かける前と全然違う髪型になっていた。次はもう少しヘアバームの量を増やしても良いかもしれない。

リアリスムの姉

 昨日、姪が進学で高円寺に越してきた。茨城で田んぼに囲まれて育った姪が。姉夫婦も引っ越しの手続きで数日は高円寺にいるというので、休日のジム帰りに寄ってみることにした。

 部屋に着くと既に大方の引っ越しが終わっており、ピンクのフリルがついた真新しいベッドカバーの上で姪が少し恥ずかしそうに座っていた。入学祝を姪へ、手土産を姉へ渡してそれぞれの近況を話した後、4人で新宿に買い物へ行く事になった。

 姉夫婦と姪と私。茨城の片田舎にある実家でしか集まる事のない4人が、混雑した昼下がりの高円寺を歩き、電車で新宿に向かおうとしている。「なんだか不思議な感じがする」と私が言うと、「この先滅多にないシチュエーションだろうから記念に写真を撮っておこう」と姉が言い出し高円寺駅のホームで集合写真を撮った。


 新宿に着くと姉一家と私は一度別れ、各々の買い物を済ませた後、再度集合してルミネにあるアメリカンダイナー風のレストランで遅い昼食をとった。

 姉夫婦はハンバーガーやオニオンフライやコブサラダや自家製レモネードなどをシェアし、私はそのおこぼれにあずかりつつアボカドチーズハンバーガーを一人分きっちり食べた。

 姪と義兄がいるものの、両親抜きで姉と話すなど何年ぶりだろう。昔話や実家に暮らす親の話をしていると予想以上に話が弾む。ふと姪に目をやると退屈そうにレモネードを飲んでいた。そうだ今日の主役は彼女だったのだ。彼女を差し置いて勝手に盛り上がってしまった自分の無思慮を呪った。私の皿の上に残っている冷えたフライドポテトを急いで口に放り、会計を済ませ(姉が奢ってくれた)、姉一家とはその場で別れた。


 帰りの電車の中、高円寺の街を姉と歩いた時に覚えた不思議な感覚を反芻した。「仕事でしか会わない人とプライベートで会った時」や「上京して知り合った友人と地元で会った時」などと同じで、調和の周りを異質なシチュエーションが取り囲み、調和が際立ったり、時には崩れたりする感覚。姉は茨城以外で暮らした事が無い。私にとって姉は愛憎入り混じった地元をアイコン化した様な存在なので、そのコントラストは強く際立っている。

 「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の不意の出会いのように美しい」という誰かの詩を思い出した。

 

 その晩、姪から「今日はありがとうございました」と丁寧なお礼が姉のLINEづてに届いた。何か返事をしようと思い暫く考えたが、適当な言葉が見つからずイイねのスタンプだけを押して返信した。ふいに姪の新居の洗面所にあった、恐らくは実家から持ってきたであろうキャラクターもののプラコップを思い出して、胸にこみ上げるものを感じた。

予防線

  20代前半から30代前半までの十年程、複数の女性から「モテそう」と言われる事が度々あった。「モテるね」じゃなくて「モテそう」。これはあくまで個人の見立てで、実際にはモテていた事実も実感もない。念の為言っておくが、私から「全然モテなくて」的な自虐を出して「そうなの?モテそうなのに」と無理矢理フォローを言わせたわけではない、多分。あくまで唐突に査定されたものだ。

 

 あの時、別々の女性達から口を揃えて言われた「モテそう」という言葉の裏にはいったい何があったんだろうかと最近考えるようになった。

 で、思ったのはあれは一種の「予防線」だったのではないかという事。

 

 「モテそう」と言ってくれた女性達の多くは、お互い独身のまま10年振りに東京でサシ飲みする地元の同級生の様な、ともすると恋愛に転がってしまいそうなハラハラした関係だった。あの時、私は周りがどんどん結婚し始めて焦りを感じていたし、友人と思っていた女性が結婚すると嬉しいと同時に僅かな可能性が消えた寂しさを感じてしまっていた。そんな私の焦りや感情を敏感に感じ取ったうえで「モテそう」という言葉で私の恋愛対象となるべき相手は他の誰かであることを婉曲的に伝え「予防線」を張っていたのではないか。そう考えるようになった。

多分ハラハラしていたのは私だけで、相手はそんな事つゆほども思っていなかったんだと思う。

 「あなた、モテそうだよね」で仮定される私を好いてくれそうな対象には、少なくとも発言者本人は入らない。私は気づかなかっただけで、うまいこと女性たちに躱されていたんではないかと思う。それに気づいた瞬間、猛烈に恥ずかしくなった。

 

 そして今「モテそう」と言ってくれてた女性達とは殆ど疎遠になっている。結局私自身が結婚してしまったのだから自然と離れたのだろう。今私の周りにいるのは、同じDINKsや未婚で生きる事を決めた独身の友人が多い。友人たちと会うたびに「将来は私たちだけで子のない老人専用のシェアハウスを作って住みましょう」という話をしている。実現するかどうかは分からないが、案外悪くないんじゃないかと思う。

「トム・ソーヤ」を知らない

 正月にトーク番組を見ていた時、ある芸人の「トム・ソーヤになりたい」という発言にぽかんとしてしまった。私は「トム・ソーヤ」を観たことも読んだ事もないので、それがどういった意味を持つ発言なのか分からず置いてきぼりを食らってしまったのだ。結局前後の会話から「トム・ソーヤの様な陽気な樹上生活に憧れている」という趣旨で発言をしていることは理解できた。そうか「トム・ソーヤ」は樹上生活者なのか。不惑を過ぎても「トム・ソーヤ」を知らない自分の無教養さにつくづく辟易した。

 そもそも「トム・ソーヤ」は主人公の名前なのか、どこか異国の街なのか、それさえも分かっていなかった。そして朧げな「トム・ソーヤ」情報を脳内でかき集めると何故か毎回「ワンパクなピーターパン」が顔を出す。しかし考えたらピーターパンの事もあまりよく知らない。緑色のチューリップハットを被っているのはどっちだ?ふと脳裏に上背のある男性の姿が浮かぶ。違う、それは「のっぽさん」だ。ダメだ、重症だ。

 このように私は曖昧なものを曖昧なままやり過ごしてしまう悪い癖がある。一般教養であれば恥をかくだけで済むのだが、仕事においてもそうであるから始末が悪い。

 会社で総務的なポジションの責任者となってもう十年近く経つが、未だに「年末調整」が何故発生し、何のために申請するのかを分かっていない。あまつさえ自分も申請しているのに。幸い私以外のスタッフはその道の手練で私など居なくても順調に対応が進むのだが、ポジション上毎年ヒヤヒヤしている。ただその「それを知らずにどこまで行けるか」というスリルを楽しんでいるところもあって、「年末調整システム事前打合せ」などがあると物知り顔で参加してしまう。スリルを楽しんでいる以上、私が「年末調整」を覚える事はないのだろう。恐らくは私に想像の翼を与えてくれる「トム・ソーヤ」も。無知が転じて知らない事を楽しむ術を覚えてしまった。

 ところでもし「トム・ソーヤ」か「ピーターパン」が実写化されるとしたら、誰が適役だろうか。私は「のっぽさん」を推したい。「トム・ソーヤ」も「ピーターパン」も知らないのに何故か直感的にそう強く願う。そして私の直感は往々にして外れる。

 

遮光

 最近隣家の窓に段ボールが貼られている。原因は多分私だ。夜、私の部屋の灯りが漏れて、隣家の(恐らくは寝室の)窓に届いてしまっているらしい。確かに夜中まで本を読んだり映画を見たり、あまつさえ電気を煌々と付けたまま朝まで寝てしまうこともよくあるので申し訳ないと感じていた。隣家もとうとう我慢が出来なくなったのだろう。

 ここまで書くと100%私に非がある様に聞こえるかも知れない。でもちょっと待ってほしい、話はそれほど単純ではない。そうです、隣の家の寝室にはそもそもカーテンが付いていないのです。

 カーテンがない?上京したての大学生か?眩しいなら何故付けない?寝室以外にはちゃんと付いているではないか。うちは付けているぞ。窓に段ボールを貼る行為が隣家にどういう感情を与えるかわかっているか?そりゃこっちも悪いけどさ、、、と言いたいことは山ほどある。しかし風神雷神がプリントされた和柄パーカ姿の隣人と鉢合わせると「おはようございます」しか出てこない。悔しい。悔しいのでたまにベランダの目立つ所へボクシンググローブを干している。効果があるのかは分からない。

 結局、妻と相談し私の部屋に遮光カーテンを追加で取り付ける事にした。出費は痛いがこれで解決だ。グローブを干すより何万倍も効果があるだろう。しかしどうにも腑に落ちない。隣家のプレッシャーに負けた気がするのだ。物理的な解決は往々にして心情の解決にはならない。

 そんな事を考えながら悶々と日々を過ごしていると数日して隣家に変化があった。なんと窓にブラインドが取り付けられたのだ。やればできるじゃないか。これからは私も寝る前に必ず電気を消しますね。これでお互いフェアですね。私の溜飲も下がります。

 段ボールは数日で復活した。どうやらブラインドでは遮光し切れなかった様だ。そもそもブラインドの隙間は遮光に不向きな事に気がつかなかったのか?何故カーテンじゃ無くてわざわざブラインドを選ぶのか。あなたに必要なのはブラインドの様な変化球じゃない、直球だ。遮光カーテンだ。

 今日とうとう我が家の方に遮光カーテンが取り付けられた。しかし新しい家具に対するピュアな高揚はない。ただただ隣家の段ボールがどうなるのか、おずおずと剥がすのか、ブラインドに戻るのか、想像を超えた何かを出してくるのか、下劣な妄想が私を支配している。

 隣人よ恐れ慄くが良い、遮光一級カーテンの実力に。

 

 

 

 

余計なことしか言わない

 入院中に読む本を探しに本屋へ。読書会や古本市でお世話になった店主の方が居たので、常連気取りで「術後ボーッとするらしいので、あまり深く考えずに読める本ありますか?」などと通ぶった質問をしてしまった。相当失礼な質問なことに気づきすぐさま謝罪。私は調子に乗ると余計なことしか言わない。勧めて頂いたZINEを勧められるまま購入。僥倖。

 途中居合わせたお客さんが最近サニーデイ・サービスにハマっているとの事で3人でサニーディについて立ち話をした。聞けば店主も最近よく聴くらしく店内でも「東京」が流れていた。
 サニーデイ・サービス。大学時代に付き合っていた彼女と鴨川で一緒に歌ったこと、バンドで沢山コピーしたこと、ライブハウスのアルバイト時代にメンバーの衣装を何故か自宅で洗濯したこと。私の青春の一部はサニーデイで構成されているので、他の人がサニーデイについて話しているのを聴くとどこか恥ずかしい気持ちになる。

 カフェオレとケーキを注文して奥の喫茶スペースで休憩。持ち込んだ本を読もうと思ったが、流れている「東京」が海馬をくすぐるので全く集中できない。同じページを何度も読み返してしまう。諦めて退店しようと立ち上がると、店主から私が先日ツイートしたある書店への苦言について聞かれた。といっても「あのツイートですが。。。」と聞かれただけなので結局何を聞こうとしていたのかわからない。わからないのに「ですが。。。」の「が」に被さる勢いで、燻っていた私の思いをぶちまけてしまった。途中「その書店と店主がつながっていたらどうしよう」と不安になり、恐る恐る聞いてみたら「ちょっとした知り合い」との事。いや本当はむちゃくちゃ知り合いなのかもしれない。私の勢いに気を使ってくれているのかも知れない。私は本当に余計なことしか言わない。

帰る途中、いつも富士山が綺麗に見える橋の上で富士山を探したが、珍しく雲に覆われていてほとんど見えなかった。