ヘアバームと読書会と世界の終わり(ある休日)

 髪型が決まらない。先週思いつきでツーブロックにしたのがいけなかった。美容室ではサラッといい感じに仕上がったのに、いざ自分でセットすると「入浴禁止の入院患者」になってしまう。美容師が使っていたヘアバームと同じものを買ったのにこれだ。何度か失敗してヘアバームは自分が思っている半分くらいの量にすればそれっぽくなる事がわかった。ところで皆ヘアバームなりヘアワックスなりの使い方をどこで知るのだろうか。


 夕方、ジムから戻りシャワーを浴びて読書会へ。ヘアバームは自分が思っている量の半分の、さらに半分にした。

 

 本屋がある商店街の入り口に車を停める。暮れ始めた陽が商店街を薄くオレンジにした。早く着いたので始まる迄の間本屋で新刊を物色しようかと思ったけれど、早く行くと「読書会をむちゃくちゃ楽しみにしている人」に思われそうなので少し商店街を歩く。

 商店街。中学校の体操着が売られている婦人服店、知らない演歌歌手のサイン付きポスターが貼られたスナック、ずっと大音量でラジオが流れている宝石店、煙草販売カウンターがある酒屋。どこからか土間の湿った冷たい土の匂いがした。自転車に乗った年配の女性が車道をゆっくりと斜めに横切る。オレンジが濃くなった。開始2分前に本屋に到着。

 

 読書会は特定の本について語り合うのではなく「読んでいない本について語る」という独特なもので今回で3回目。各々が自宅で積読にしている本を持ち寄る。今日は常連に混ざって遠方から初参加の方が来ていた。

 初参加の方。詳しくは書けないけど珍しい苗字で、自己紹介で自身の苗字にまつわる話をしてくれた。「皆さん私の苗字、何となく気になりますよね」という先読みの気遣いを感じた。その気遣いや説明までの自然な流れは、望む望まないに関わらず自分の苗字に説明を求められる場面や空気に幾度も遭遇している事を暗に証明しているようで少しだけ切なくなった。本当のところは何も分からないけど。


 各々の持ち込んだ本について「なぜ読んでいないのか」というエピソードを紹介する。装幀狙いで買った本、ひらがなばかりで逆に読みにくい児童書、難しすぎて挫折した本、家にある理由さえわからない本。理由は様々。さながら「積読あるある」の大喜利のようだ。ただ、時折笑いが 起きつつ話が進むものの、未読の本を話す時は皆言葉の節々に「読めていないこと」への後ろめたさや申し訳無さが滲む。そして話し終わると少しだけ眉があがる。なるほど読んでいない本への鬱積した感情を、赤裸々に告白することで成仏させているのだ。カタルシスだ。グループカウンセリングだ。

 

 ところで「読んでいない本」とは何だろう。どこまでを「読んだ本」と定義し、どこまでを「読んでいない本」と定義づけるのか。パラパラとページをめくったら読んだ事になるのか、読んだけれど何の感想もない本や、主人公の名前もストーリーも忘れてしまった小説は読んだことになるのか、帯文と解説を読んだら読んだ本として括られるのか、この読書会に参加してからだんだんわからなくなってきた。

 私の本棚に鎮座したまま数年経つカラマーゾフの兄弟や、おしゃれ本棚を目指して買ったエドワードホッパーの絵画集は、読んでいないものの毎日視界に入っており、視界に入っている以上何かしらの影響を私に与えている筈で、実際それらが本棚に置かれた後、ドストエフスキーにまつわる本を買ったり、ホッパーの表紙にあるNighthawksに似た構図で写真を撮ったりしている。


 仮に本の意義を大雑把にとって「対象になんらかの感情をもたらすもの」とした場合、本は「読む」という行為だけのものじゃないと思うようになった。突き詰めれば手にしたかどうかも重要ではなくて、読もうと思ってその本を意識した時点で、本の存在が海馬に刻まれ、その人を構成する一部となり、結果本の意義の一部を達成している事になるんじゃないか。となると図書館や本屋と言うのは、そこに居てふらふらと背表紙を眺めているだけで「ああ、こんなジャンルの本があるのか」などと自分の脳内HDDに夥しい情報が書き込まれていく貴重な場所だ。そう考えるとなんだか少し楽しい。いや読むに越した事は無いのだけれど。


 前にツイッターで「本の内容については語らず、本の装幀やデザインだけを語る読書会があったら面白そう」という呟きがあって、見かけた時はふうんと流したのだけれど、こうして未読の読書会に参加すると、それ本当に面白いかもしれないな、などと人の未読本の話を聞きながらぼんやり考えていた。


  読書会が終わった後、併設しているカフェでホットドッグを頼んだ。大口を開けないと食べられないボリューミーなホットドッグがテーブルに運ばれ、自分の絶望的な食べ方の汚なさを思い出した。誰もみていない瞬間を狙いこっそりと大口で放り込む。爆ぜるパン粉、滴るサルサソース。参加者の一人が本棚からテーブルに戻ってきたのでサッと食べる手を止め「なんか良い本ありましたか?」「村上春樹でSFっぽいのは『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』ですかね」など自然な感じを装って話かけていると「ホットドッグ、冷めますよ」と言われた。ホットドッグを食べるふりをして添えてあるトルティーヤチップスを食べた。


 本屋を出ると日はどっぷり暮れていて、オレンジだった商店街は、街灯に照らされ世界の終わりのようにシンと青白く沈んでいた。帰って手を洗いながら鏡をみると、出かける前と全然違う髪型になっていた。次はもう少しヘアバームの量を増やしても良いかもしれない。