22/6/30(木)

 仕事。同僚が帯状疱疹になりしばらく休むことになった。仕事が振られ、月末月初と第一クオーターの対応も重なり堰を切ったように忙しさが増す。現実逃避するように昼休みにオフィスを抜け、前から気になっていたモンベルマイクロファイバーハンドタオルを買う。2枚。当てつけの様な買い物をしてしまった。

 

 仕事帰りに駅ビルへ。元々Tシャツを買うつもりだったが、なぜか隣にある眼鏡店で眼鏡を新調した。縁が細くて大きな眼鏡。閉店間際だったので受け取るのは明日。パーマをあてて以降、少しだけ自由になった気がして、今まで遠慮していた服やアクセサリーが気になり始める。いつの頃からか身につけるものを「威圧的にならない」「嫌味にならない」という消極的な選び方をしていた。もっと自由に着る服や髪型を選んでもいいはず、と思いつつも年齢考えろよとも考えてしまい、両者が脳内で取っ組み合いをしている。

 

今日の買い物。モンベルのマイクロタオル ハンド 638円×2枚。f:id:tubeworm37:20220702031123j:image

22/6/29(水)

 TOKYO No,1 SOULSETを聴いていた。「否応なしに」の歌詞の一節「何処へ行くの今、朝になると」という言葉の並びの異常性に今更気づく。ずいぶん長く聴いているのに。

 

 19時に仕事が終わり20時前に最寄りの駅に到着。家の近くの少し開けた道路に出ると西の空がまだ少し明るくて思わず写真を撮った。撮った後、自分が誰かに「ねえ見て、20時なのにまだこんなに明るいの」と写真を見せている姿を想像して、あとで削除するだろうなと直感した。

 

 コンビニで水を買いジムへ。同じくらいの体重の練習生と対人練習5ラウンド。練習相手は小学校の先生で、すでに通信簿を書き始めていることと、明日彼女にプロポーズをすることを教えてくれた。明日プロポーズを控えている男性にかけるべき適切な言葉が見つからず「おお!」とだけ間抜けに応えた。

 

 今日の買い物。長野県安曇野の天然水2000ml、105円

 

一枚でちゃんと見えるTシャツが欲しい。

 

f:id:tubeworm37:20220630003143j:image

 

 

22/6/28(火)

 仕事の移動中ずっとTOKYO No,1 SOULSETを聴いていた。27年ぶりにセルフカバーされたJive my revolverは、当時のぞりぞりする様な感覚はなく聴いていると冷凍食品を食べている気分になった。

 自分の車で出張。朝、先週動かなくなった空気清浄機を車へ積んで、移動途中にある清掃センターで廃棄。夜、仕事帰りに家電量販店に寄ってSHARP製の新モデルを購入。20:30帰宅。夕飯はレトルトのカレーとTwitterでみたズッキーニの素焼き。洗濯物を干しながら妻にヒーターとサーキュレーターがついたダイソンの空気清浄機が格好良くて思わず買いそうになったと話すと「え?ヒーターもサーキュレーターもあるから買う必要ないじゃん」と返された。正論を言われてしまい思わず「人の話をすぐに主観でジャッジするのオジサンみたいだよ」と口答えしてしまった。「エアコンとサーキュレーターが実在する事のどこが主観なの?」と返され、このまま会話を続けるとけんかになってしまいそうだったので「この話やめ!」と無理矢理話題を変えた。他人と長年一緒に暮らすと、衝突しそうな話題や雰囲気に敏感になって、それを回避する技術が身につく。

今日の買い物。

SHARP空気清浄機KI-PS40。¥31,792。

夏服も買いたいので今週は出費が嵩む予定。

22/6/27(月)

 

 急ぎの仕事がなかったので早めに会社を上がった。帰りに去年買おうと思いつつ何となくためらっていた日傘を購入。日傘を差すことに抵抗がないわけではないけれど、抵抗なり拘りなり生活を限定する行動は意識してほぐしていかないと、年を重ねる毎に不可逆的に凝り固まってしまう気がして怖い。それにこの暑さだ、あれこれ言っている場合じゃない。

 自宅近くの皮膚科へ。最近頻繁に蕁麻疹が出るのは、花粉症用に耳鼻科で処方してもらっていたアレルギー薬をやめたのが原因らしく、2か月前に耳鼻科で処方してもらったものと同じ薬を皮膚科で処方してもらった。薬局で処方薬をもらい18:00帰宅。スーツのまま盛夏用の衣替えをする。トレーナーやら厚手のシャツやらをしまい、ノースリーブのシャツやらエアリズムやらを引っ張りだす。その勢いに乗じて、去年殆ど着なかった夏服をまとめ古着屋へ。査定を待つ間本屋で時間をつぶす。仕事用の本を探しているうちに普段寄り付かない「宗教・精神世界」の棚に迷い込んだ。「宇宙」「波動」「霊」「魂」などの言葉が並ぶ。周りに誰もいないことを確認しつつ、どれか一つを手に取ろうかと思ったけれど、どれを選んでいいのかわからず結局手に取らなかった。古着屋へ戻る。査定は予想より全然低くて、そのことを正直に伝えたら倍の値段にしてくれた。毎回この流れだ。

 家に戻って素麵。ミョウガとネギと頂きものの梅を薬味にした。食後に妻とストレンジャーシングス4を観る。タブクリア、エディマーフィ、talkingheads。絶妙なものを絶妙なタイミングで仕掛けてくる。観ながら「ストレンジャーシングス コラボ」で検索をした。多分来月あたりには何かしらコラボ品を買ってしまっている気がする。

 今日の買いもの。モンベルのサンブロックアンブレラ4,950円

タルトタタンを知らない -「読んでいない本について堂々と語る読書会」からのイメージ-

 タルトタタンから意識的に目を逸らしてきた。

 初めて名前を目にしたのは5年くらい前に読んだ、「〇〇のタルトタタンが美味しかった」というWEB記事の一行だったと思う。知らない名詞、独特すぎるネーミング。気になって前後の文脈を辿るとどうやらお菓子の類であるらしい。しかし記事からはそれ以上の情報を得ることが出来なかった。

 タルトタタン。言葉の響きが気に入った。どことなくエキゾチックで呪詛的なものを感じる。唱えれば、嫌いな人の靴の中に小石が絶えず紛れ込んだり、お気に入りのセーターが突然チクチクし出すくらいの威力はありそうだ。  

たった6文字の中に「タ」が3つも入っている言葉なんてあるだろうか、悪ノリで名付けてしまって命名者は後悔していないだろうか。しかし前半のタルトは分かるとしても、後半のタタンが事態をややこしくしている。

 タタン。濁音も半濁音も使われず、のっぺりとしていながらどこかコロコロとした印象、語感で思い浮かべるのは木の実。「タタンの実」が入ったタルトなのかも知れない。でもそうなると、大抵タルトは後ろについて「タタン-タルト」になるはず。なぜ「タルト-タタン」なのか。いや実は「タタンのタルト」でも「タルトのタタン」でもなく「タルトとタタン」だったりはしないだろうか。「赤飯饅頭」とか「プリンどら焼き」とか「牡丹と薔薇」とかと同じあれだ。タタンと言うお菓子は聞いたことがないけれど、不惑を過ぎても知らないことなんていくらでもある。ついこの前、8年近く使っていた会社の複合機の「PDF連続読込み機能」を知って感動していたら、後輩から「え?今知ったんですか?」と驚かれた。 

 

 こうして初めて目にして以降、イマジナリータルトタタンは私の脳内にブラックホールのような空洞となって小さく禍々しく鎮座した。それはそれで何だか面白くて、いっそのこと本物のタルトタタンに出会うまではこのままにしておこうと、その後暫くはネットや雑誌でタルトタタンという文字を見るとあえて目を逸らして余計な情報を入れずにいた。

 この「タルトタタン断ち」は、つい先日、コンビニでの僥倖であっけなく終わりを迎える。私が妄想をしているあいだに、タトタタンはコンビニに並ぶほどの市民権を得ていた。買って帰ったあと暫くは、無駄に冷蔵庫から出しては「これがタルトタタンか…」と、色々な角度から眺め感慨に耽っていた。期限もいよいよとなり意を決する。きちんと皿に盛ってコーヒーと一緒に食べようかと思ったけれど、いざその時になるとなんだか急に恥ずかしくなって、ビニール包装を破いてそのままかじりついた。前歯の裏から鼻腔へタルトタタンがジュワっと駆け抜ける。  おぉ!これが!と思った瞬間、脳内のタルトタタンブラックホールはシュンと萎んで消えてしまった。  

ヘアバームと読書会と世界の終わり(ある休日)

 髪型が決まらない。先週思いつきでツーブロックにしたのがいけなかった。美容室ではサラッといい感じに仕上がったのに、いざ自分でセットすると「入浴禁止の入院患者」になってしまう。美容師が使っていたヘアバームと同じものを買ったのにこれだ。何度か失敗してヘアバームは自分が思っている半分くらいの量にすればそれっぽくなる事がわかった。ところで皆ヘアバームなりヘアワックスなりの使い方をどこで知るのだろうか。


 夕方、ジムから戻りシャワーを浴びて読書会へ。ヘアバームは自分が思っている量の半分の、さらに半分にした。

 

 本屋がある商店街の入り口に車を停める。暮れ始めた陽が商店街を薄くオレンジにした。早く着いたので始まる迄の間本屋で新刊を物色しようかと思ったけれど、早く行くと「読書会をむちゃくちゃ楽しみにしている人」に思われそうなので少し商店街を歩く。

 商店街。中学校の体操着が売られている婦人服店、知らない演歌歌手のサイン付きポスターが貼られたスナック、ずっと大音量でラジオが流れている宝石店、煙草販売カウンターがある酒屋。どこからか土間の湿った冷たい土の匂いがした。自転車に乗った年配の女性が車道をゆっくりと斜めに横切る。オレンジが濃くなった。開始2分前に本屋に到着。

 

 読書会は特定の本について語り合うのではなく「読んでいない本について語る」という独特なもので今回で3回目。各々が自宅で積読にしている本を持ち寄る。今日は常連に混ざって遠方から初参加の方が来ていた。

 初参加の方。詳しくは書けないけど珍しい苗字で、自己紹介で自身の苗字にまつわる話をしてくれた。「皆さん私の苗字、何となく気になりますよね」という先読みの気遣いを感じた。その気遣いや説明までの自然な流れは、望む望まないに関わらず自分の苗字に説明を求められる場面や空気に幾度も遭遇している事を暗に証明しているようで少しだけ切なくなった。本当のところは何も分からないけど。


 各々の持ち込んだ本について「なぜ読んでいないのか」というエピソードを紹介する。装幀狙いで買った本、ひらがなばかりで逆に読みにくい児童書、難しすぎて挫折した本、家にある理由さえわからない本。理由は様々。さながら「積読あるある」の大喜利のようだ。ただ、時折笑いが 起きつつ話が進むものの、未読の本を話す時は皆言葉の節々に「読めていないこと」への後ろめたさや申し訳無さが滲む。そして話し終わると少しだけ眉があがる。なるほど読んでいない本への鬱積した感情を、赤裸々に告白することで成仏させているのだ。カタルシスだ。グループカウンセリングだ。

 

 ところで「読んでいない本」とは何だろう。どこまでを「読んだ本」と定義し、どこまでを「読んでいない本」と定義づけるのか。パラパラとページをめくったら読んだ事になるのか、読んだけれど何の感想もない本や、主人公の名前もストーリーも忘れてしまった小説は読んだことになるのか、帯文と解説を読んだら読んだ本として括られるのか、この読書会に参加してからだんだんわからなくなってきた。

 私の本棚に鎮座したまま数年経つカラマーゾフの兄弟や、おしゃれ本棚を目指して買ったエドワードホッパーの絵画集は、読んでいないものの毎日視界に入っており、視界に入っている以上何かしらの影響を私に与えている筈で、実際それらが本棚に置かれた後、ドストエフスキーにまつわる本を買ったり、ホッパーの表紙にあるNighthawksに似た構図で写真を撮ったりしている。


 仮に本の意義を大雑把にとって「対象になんらかの感情をもたらすもの」とした場合、本は「読む」という行為だけのものじゃないと思うようになった。突き詰めれば手にしたかどうかも重要ではなくて、読もうと思ってその本を意識した時点で、本の存在が海馬に刻まれ、その人を構成する一部となり、結果本の意義の一部を達成している事になるんじゃないか。となると図書館や本屋と言うのは、そこに居てふらふらと背表紙を眺めているだけで「ああ、こんなジャンルの本があるのか」などと自分の脳内HDDに夥しい情報が書き込まれていく貴重な場所だ。そう考えるとなんだか少し楽しい。いや読むに越した事は無いのだけれど。


 前にツイッターで「本の内容については語らず、本の装幀やデザインだけを語る読書会があったら面白そう」という呟きがあって、見かけた時はふうんと流したのだけれど、こうして未読の読書会に参加すると、それ本当に面白いかもしれないな、などと人の未読本の話を聞きながらぼんやり考えていた。


  読書会が終わった後、併設しているカフェでホットドッグを頼んだ。大口を開けないと食べられないボリューミーなホットドッグがテーブルに運ばれ、自分の絶望的な食べ方の汚なさを思い出した。誰もみていない瞬間を狙いこっそりと大口で放り込む。爆ぜるパン粉、滴るサルサソース。参加者の一人が本棚からテーブルに戻ってきたのでサッと食べる手を止め「なんか良い本ありましたか?」「村上春樹でSFっぽいのは『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』ですかね」など自然な感じを装って話かけていると「ホットドッグ、冷めますよ」と言われた。ホットドッグを食べるふりをして添えてあるトルティーヤチップスを食べた。


 本屋を出ると日はどっぷり暮れていて、オレンジだった商店街は、街灯に照らされ世界の終わりのようにシンと青白く沈んでいた。帰って手を洗いながら鏡をみると、出かける前と全然違う髪型になっていた。次はもう少しヘアバームの量を増やしても良いかもしれない。

リアリスムの姉

 昨日、姪が進学で高円寺に越してきた。茨城で田んぼに囲まれて育った姪が。姉夫婦も引っ越しの手続きで数日は高円寺にいるというので、休日のジム帰りに寄ってみることにした。

 部屋に着くと既に大方の引っ越しが終わっており、ピンクのフリルがついた真新しいベッドカバーの上で姪が少し恥ずかしそうに座っていた。入学祝を姪へ、手土産を姉へ渡してそれぞれの近況を話した後、4人で新宿に買い物へ行く事になった。

 姉夫婦と姪と私。茨城の片田舎にある実家でしか集まる事のない4人が、混雑した昼下がりの高円寺を歩き、電車で新宿に向かおうとしている。「なんだか不思議な感じがする」と私が言うと、「この先滅多にないシチュエーションだろうから記念に写真を撮っておこう」と姉が言い出し高円寺駅のホームで集合写真を撮った。


 新宿に着くと姉一家と私は一度別れ、各々の買い物を済ませた後、再度集合してルミネにあるアメリカンダイナー風のレストランで遅い昼食をとった。

 姉夫婦はハンバーガーやオニオンフライやコブサラダや自家製レモネードなどをシェアし、私はそのおこぼれにあずかりつつアボカドチーズハンバーガーを一人分きっちり食べた。

 姪と義兄がいるものの、両親抜きで姉と話すなど何年ぶりだろう。昔話や実家に暮らす親の話をしていると予想以上に話が弾む。ふと姪に目をやると退屈そうにレモネードを飲んでいた。そうだ今日の主役は彼女だったのだ。彼女を差し置いて勝手に盛り上がってしまった自分の無思慮を呪った。私の皿の上に残っている冷えたフライドポテトを急いで口に放り、会計を済ませ(姉が奢ってくれた)、姉一家とはその場で別れた。


 帰りの電車の中、高円寺の街を姉と歩いた時に覚えた不思議な感覚を反芻した。「仕事でしか会わない人とプライベートで会った時」や「上京して知り合った友人と地元で会った時」などと同じで、調和の周りを異質なシチュエーションが取り囲み、調和が際立ったり、時には崩れたりする感覚。姉は茨城以外で暮らした事が無い。私にとって姉は愛憎入り混じった地元をアイコン化した様な存在なので、そのコントラストは強く際立っている。

 「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の不意の出会いのように美しい」という誰かの詩を思い出した。

 

 その晩、姪から「今日はありがとうございました」と丁寧なお礼が姉のLINEづてに届いた。何か返事をしようと思い暫く考えたが、適当な言葉が見つからずイイねのスタンプだけを押して返信した。ふいに姪の新居の洗面所にあった、恐らくは実家から持ってきたであろうキャラクターもののプラコップを思い出して、胸にこみ上げるものを感じた。