岡村靖幸にまつわる記憶抄

 「今『気持ちわるい』って思ったでしょ」

彼女のアパートに訪れた時、居間に置かれた御本尊と名誉会長の顔写真を見た私に彼女は言った。彼女はある新興宗教の信者だった。

 「分かるよ、そう思う気持ち。むしろそれが普通だと思う。でもこれを知ってしまった以上逃れることはできないの」

彼女は諦めとも寂しさとも解釈できる笑顔を作ってその場をおさめた。それ以降、私が部屋に来る時には御本尊や顔写真は見えにくい場所に置かれるようになった。

 彼女とは3年交際して別れた。一時は結婚まで考えたものの、子供が出来たら絶対入会させるし、今は無理かも知れないけどいつかはあなたとあなたの家族も、と考えている彼女に私が同意できなかった。

 

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 人から「初めて買ったCDはなに?」と聞かれると、なんだったかなと曖昧に応えることが多い。忘れたわけではない、初めて買ったCDは岡村靖幸の「早熟」だ。中学2年の時に駅前のジャスコで買った。曖昧に応えるのは、私が岡村靖幸と応えると大体の相手が反応に困ってしまうのを知っているからだ。

 「カルアミルク」や「だいすき」など知っている曲を応えてくれる程度なら良い方で、あからさまに嫌悪を示す人もいた。だから私は自分から岡村靖幸好きを進んで告白した事は無いし、好きと言う感情を同じ位の熱量で他人と共有したことはない。

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 大学三年生の夏休み、フィリピンで農業指導を行うNGOスタディツアーに参加した。初めての海外だった。電気もガスも水道もなく、竹で編んだ簡素な家に住み、教科書でしか聞いたことのないプランテーション農業の支配構造に絡め取られている人々の生活は、茨城の地方都市で育った私にとって文字通りカルチャーショックだった。初日、一通りの座学を終えた後、米と川魚と豆の缶詰という質素な夕飯がありその後ささやかな宴が始まった。途中うっかりギターが弾けると言ってしまった私に弦が何本か足りていないギターが渡された。暫く悩んだあと絶対誰も知らないインディーズの曲を歌った。一曲では場が持たなかったので適当にコードをあてて「上を向いて歩こう」も歌ったような気がする。どう反応したら良いか決めかねている日本人ツアー客とは対称的に、現地の人々は歌に合わせて踊りを踊ってくれた。それが客人に対する気遣いだったのか内から湧き出たものなのかは分からないが、私はその踊りに救われた。

 NGOの代表はツアー中何度も「彼らと私達は違う。そして違うまま認め合うところからコミュニケーションは始まる」と話していた。その言葉には現地で金を落とすだけのODAに対する苛立ちから来ているものであったが、私にはもっと普遍的なもののように感じて、今でも時々思い出す。代表はクリスチャンだった。帰国後は高熱と下痢を発症し一週間ほど寝込んだ。

 

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 自分の器量や理解を超えたものを目の前に差し出された時、私はうまく踊ることが出来るのだろうか。彼女と彼女が信じるものにどう折り合いをつければ良かったのか今でもふと考えてしまう。もしその答えがわかっていたのならば、岡村靖幸が好きな事を理解してくれていた彼女に

「あなたの事はもう好きでも嫌いでもない」

「あなたが信じる宗教も正直よく分からない」

などと強い言葉で傷つけ、泣きながら助手席を降りて行く彼女の背中を見送らずに済んだのかも知れない。

 久しぶりに彼女のSNSを覗こうと思ったが、アカウントは削除されていた。

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